東洋経済オンラインに対談が掲載されたのでご報告。
手足を切るような”大リストラ”が始まる
城繁幸氏と考える「日本に依存しないキャリア」(上)
意外に気付いていない人が多いが、労働市場の流動化の本質は
(社会保障をはじめとする)労働以外の各種の役割を雇用契約の中から取り除くことだ。
とすると、当然、個人は賃上げのためには自分で成長しないといけないし、
そのためのキャリア設計も研修も自分で考えないといけない。
従来、大手の日本企業に入ると、業務は会社が与えてくれ、どんな業務であろうと
それを一定期間こなすうち基本給も昇給した。5年目とか10年目といった節目で
横並び研修を受けさせてもらえ、勤続年数に応じた教育も与えてもらえた。
「今でもそうだ」と考えている人は少なくないはず。
ただ、恐らく今後は、昇給する業務とほとんど横ばいの業務に二極化し、個人で
主体的に成長できる人だけが前者に固まることになるはずだ。
政治家もサラリーマンも、すべての労働者は使い捨てである。
共同体だとか生活給だとか、へんな幻想を捨てることが
キャリアデザインの第一歩かもしれない。
手足を切るような”大リストラ”が始まる
城繁幸氏と考える「日本に依存しないキャリア」(上)
意外に気付いていない人が多いが、労働市場の流動化の本質は
(社会保障をはじめとする)労働以外の各種の役割を雇用契約の中から取り除くことだ。
とすると、当然、個人は賃上げのためには自分で成長しないといけないし、
そのためのキャリア設計も研修も自分で考えないといけない。
従来、大手の日本企業に入ると、業務は会社が与えてくれ、どんな業務であろうと
それを一定期間こなすうち基本給も昇給した。5年目とか10年目といった節目で
横並び研修を受けさせてもらえ、勤続年数に応じた教育も与えてもらえた。
「今でもそうだ」と考えている人は少なくないはず。
ただ、恐らく今後は、昇給する業務とほとんど横ばいの業務に二極化し、個人で
主体的に成長できる人だけが前者に固まることになるはずだ。
政治家もサラリーマンも、すべての労働者は使い捨てである。
共同体だとか生活給だとか、へんな幻想を捨てることが
キャリアデザインの第一歩かもしれない。
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「労働者は使い捨て」という発想では、その会社で働きたいと思う労働者は誰もいなくなってしまうでしょう。
「従業員は家族です」とまで言い切れる度量のある経営者なり人事はもう絶滅してしまっているかもしれませんが、少なくとも「同じ仕事をする仲間です、力をあわせて目標を達成するんです」くらいのことを言える経営者なり人事がいなくなれば、その会社の将来は間違いなくありませんね。それを共同体というのかどうかは知りませんが、仕事というのはそういうものだろうと思います。
給料は何のために支払われるのかといえば、一緒に仕事をしてもらうために支払われるのであり、一緒に仕事をしてもらうにはというのは生活してもらうためということです。
雇用流動化にはそういう思想はないのであれば、当然そっちの道にいくべきではないでしょう。